流派概要
【少林村井流空手道と総合武道少林会】
琉球に伝わった「唐手」は、本土のような流派名を持たず、首里手、那覇手、泊手等の地域名・土地名で呼称されていた。
昭和初期、本土に初めて唐手を伝えた船越儀珍は唐手の名称を「空手」に改め、自らの道場を松涛館と名付けた。後に、船越の弟子達によって、流派は「松涛館流」と呼ばれることになる。また、那覇手の大家・宮城長順が剛柔流、及び摩文仁賢和が糸東流を名乗り、当時の武道流派・団体を統括した存在であった大日本武徳会に届け出たことから、これ以降、空手においても、本土の武術同様に流派名を冠するようになった。
少林村井流空手道は琉球の人で、首里手の大家・喜屋武朝徳を祖とする少林流空手道(少林寺流空手道)を学んだ、村井正宏先師が創始。
当時、講道館柔道を中心に稽古していた、先代宗家・高橋華王はその実践性に魅せられ入門したという。 後に、奥伝九段位を授かると共に、第二代宗家・最高師範を継承した。
少林村井流は琉球少林流から伝わる古伝の型を継承する一方、高橋華王がさまざまな武道・格闘技を体得し、その技法を導入したことから独自の発展を遂げた。 特に、高橋華王がかつてプロボクシングの選手だったことからも、突きは従来の空手道より、よりシンプルで鋭く放つ形に変えられ、現在のフルコンタクト空手の先陣を期した。 また、型や当身においては中国武術や日本古武術の影響が多く見られ、晩年においては従来の少林流空手道から離れた独自の体動による型を考案し、指導した。
平成十四年五月、高橋華王より宇津志建が少林村井流空手道第三代最高師範を允許され、現在に至る。
総合武道少林会は様々な武道を修めた高橋華王が「総合武道」を提唱し、日本武道の指導・普及のために設立した。
少林会では空手道だけでなく、棒術・ヌンチャク・サイ・トンファー等の琉球古武術や、日本古武術、また、抜刀道、銃剣道、短剣道等の現代武道まで広く指導、稽古がなされた。 これは高橋華王が掲げた「総合武道」と「生涯武道」の概念によるものである。
「総合武道」とは広く浅く興味本位で複数の武術を学ぶのではなく、様々な武術を学ぶ中で、己に最も適した武道を知ることであり、また「生涯武道」とは、日々の生活の中で武道の修行を続け、心・技・体の生涯成長を目指すものである。
現在の少林会では、錬功法・基本技法・強打法・交差法・型等の少林会体系を一定段階修めた者が、段階に応じて武器術の指導を受ける。これは古伝の日本武術が体術の後に武器術を学び、その後に、また体術に至るように「武器は手の延長」とされ、体術の修練を経た者の方が武器の修得が容易であり、また、体術の体動も武器を学ぶことで進化するからである。
少林会において、錬功法・基本技法・強打法・交差法・型・組手・武器術の少林会体系は各々が独立したものではなく、全てが一つにつながるものである。
(写真:少林流棒術・シーシーの棍)
【武蔵円明流兵法】
武蔵円明流は、剣聖・宮本武蔵玄信より兵道鏡円明流免許皆伝を受けた岡本馬之介祐実が、兄岡本小四郎政名より武蔵流剣術を学び、これに家伝の岡本流体術、十手刀術を併せて創始したものである。
剣術・居合術(抜刀術)・二刀術・小太刀術・短刀術等から成り、なかでも剣術・居合術を主とする、約三百年以上前より伝わる総合武術である。 元文寛保年間(1736~1743)頃に岡本勘兵衛正誼(鳥取池田藩師範)によって鳥取地方に伝えられ、各派に分派しつつも、平成の世まで、十四代・高橋華王(元東京理科大学教授)を経て、現在は宇津志建が十五代を継承し、道統を継ぐ。
当流では、木刀・居合刀を用いて稽古に入り、後には真剣をもって修行を行う。特に居合術の稽古においては、日本刀は必要不可欠である。
居合術は「鞘の内」と言われるように、相手に対して刀を構えず、鞘の中に刀を納めたまま相対し、自ら争わず、相手の攻撃を察知した時、瞬時に「先」をとって相手を制する技法である。
日本刀は非常に危険な「武器」である一方で、日本では古来より「霊器」とされてきた一面も持ち、修行者がその危険性・霊性を認識して稽古に臨むことにより、真剣性、精神面をも鍛えられる。 武蔵円明流においては日本刀の特性を用いた技法に特徴がある。
(写真:武蔵円明流二刀勢法・中段十字)
【柳生潜流武術】
柳生潜流は修験道を母体として一子相伝で伝承されてきた秘伝武術であり、正式には柳生潜流修験武術と称する。
体術(当身拳法)・刀術(剣、居合、二刀、小太刀、二刀小太刀)・手裏剣術・気合術等からなり、 第三代宗家・滝沢式部少輔六男によって大成された。
第四代後藤弥吉(銃剣道範士八段、剣道範士九段、元海軍江田島幼年学校武術師範)、第五代高橋華王(少林村井流空手道、武蔵円明流兵法宗家、元東京理科大学教授)を経て、宇津志建が弟六代宗家を継承する。
(写真:柳生潜流鉄指拳・三本指倒立行)